それは特別意識していた行為ではなかった。ただなんとなく、その日たまたま室の隅にあったそれに気付いて、自分の側に置いていただけだった。雲が少ない晴れた昼、穏やかな陽光のもと、縁側で時を過ごしていると、いつものように花梨が軽快な足音を立ててやってきて、近くに座り込んで「これはなあに?」と尋ねてきたことで、その存在を思い出したくらいだった。

「白い球」
「蹴鞠に使う鞠だ」

 好奇心旺盛そうに、触っていい?と上目遣いで尋ねてくる。どうぞご自由にと促すと、花梨は鞠を取り上げ、物珍しそうにいろんな角度から眺めた。球体なので、どこから見ても同じなのだが。

「そういえば、時間ができたときに、八葉のみんなが蹴鞠で遊んでいました。そのときに使っていたのは、茶色の鞠だったわ」

 弾力があるのは同じですねと、少し力を入れて両手で球を押している。彼女の仕草をぼんやりと眺めながら、柱に寄りかかり座っている和仁は言った。

「作るときには、鹿や馬の皮を利用するようだ。製法は詳しくは知らぬが、御鞠師(おんまりし)という鞠を作る職人がいる。白い色は鉛白で化粧をしているためらしい。ものによって色を変えるのだろう」
「そうなんですか。とってもきれいな白だわ。ほとんど使ってないみたい」
「飾り物だからな。私は外遊びが苦手ゆえ、習いはしたが、自主的に使う機会がなかった」

 ならやってみましょうかと明るい笑顔で言われたが、今日はあまり身体の調子が良くないと言って真面目に断ると、彼女は素直に承諾した。
 鞠を膝の上に置き、花梨はふふっと小さな笑みを浮かべて庭を見た。

「蹴鞠で遊んでいたとき、みんな楽しそうでした。一番上手なのは幸鷹さんだったかな。それから翡翠さん。泉水さんも意外に上手だった気がする」

 言ってから、「意外に、なんて失礼ですよね」と申し訳なさそうに訂正している。

「私は見ているだけだったけど、この世界にも、似たような遊びがあるんだなって少し嬉しくなりました」
「そうなのか」

 八葉が蹴鞠をしている場面を思い出しているのか、花梨は微笑を浮かべたまま沈黙した。和仁は、そんな彼女の横顔を見つめ、ほとんど何も考えずに――多分、少し眠たかったのだろう――思い浮かんだことを口にした。

「神子は、八葉の中で、仲のよい者はいなかったのか」

 えっと声を上げ、花梨が和仁を見る。なぜ驚いた表情をされるのだろうと疑問に思い、自分の言葉が考え方によってはかなり意味深長であることに気がついて、慌ててかぶりを振った。

「いや……その、特に深い意味はないのだが」
「……」

 花梨は考え込むようにうつむいて、口を閉ざした。何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。不安になり、顔をのぞき込みながら「気にするな」と後を継ぐ。

「すまない。立ち入ったことを訊いた」

 そもそも自分と八葉は全く関係がないし、花梨と彼らが共に行動していたときは、和仁は敵対していたのである。そのときを彼女に思い出されることにも抵抗があった。
 不意に、花梨は顔を上げた。先ほどの笑みを消し、深刻そうに庭の方を眺めている。一体どうしたことだろう。時朝ならば、彼女がこのような態度を取る理由を知っているのではないかと考えたが、あいにく今日は彼の実家に戻ってしまっていて邸にはいなかった。
 空から舞い散る淡い光の中に、花梨の横顔が解けて消え入りそうなのを見て、和仁は、どうしてこの少女はいつもこのように寂しげで物憂げな顔をするのだろうと不思議に思った。神子と呼ばれるほどなのだから、人間とは違う、神がかりの清浄な存在である気がするのだが、もし彼女が人智を越えたものであるのならば、このひどく人間じみた表情は一体何のためにあるのだろうかと疑問を抱くのだ。京が怨霊で満ちていたとき、人間の弱さと愚かさを目の当たりにして、心を痛めて以来、深い悲嘆が今まで続いているのだろうか。もしそうならば、その原因には呪詛を利用していた和仁も含まれている。
 まさしく自分が彼女にこのような顔をさせてしまっているのではないか――申し訳ない気持ちが沸き起こり、和仁は肩を落としてうなだれた。

「すまない、神子。私はいつもお前につらい思いをさせている……」

 花梨はハッと背筋を伸ばし、和仁に振り返った。

「どうして? 私、和仁さんにつらい思いをさせられたことなんてないです。ごめんなさい、私、考え事をして、少しぼうっとしていました」

 だから和仁は関係がないというが、日常的に罪の意識に苛まれていることもあってか、このところ一度落ち込むと長いのだ。
 和仁が暗い顔をしたままなので、今度は花梨があたふたし始めた。

「あの、和仁さん、本当に気にしないでください。八葉の人と仲良くしていたかって訊かれて、いろいろ思い出していたの。確かに、みんな私にすごく親切にしてくれたけど、誰かと特別に仲良くとか、私はできなかったかなって……」

 どういう意味だろうと顔を上げると、花梨は戸惑ったらしく胸に手を当て、えっと……と言いにくそうに目を右往左往させた。

「その……
 みんな、すごく素敵な人たちで、優しくて、私のことを支えてくれたけれど、やっぱり心のどこかで線を引いていたと思うんです。あまり親しくなると、いつか帰らなくちゃいけなくなったとき、きっと別れが悲しくなってしまうって。それに、誰かに頼ることが得意ではないから、私を気遣ってくれるみんなに対して、どうしても遠慮があって……だから、仲のいい人っていうのはいなかった気がする。それよりも、頼りない自分で申し訳ない気持ちでいっぱいで……」

 和仁の問いに対し、ずいぶんと詳しい心情を話してくれる。京を救うという目的で八葉との接触している間、彼女なりに悩んでいた経緯があるのだろう。
 ぽつぽつと語る花梨の話を黙って訊いていて、そのうち言葉が途切れて静寂が訪れると、なんとなく、訊くなら今なのだろうと思って和仁は口を開いた。

「八葉の中に、お前の想い人はおらなんだか」

 内容は、かなり私情に踏み込んだものではあったが、問うている和仁は、なぜか冷静だった。花梨は和仁の質問にびっくりしたらしく、目を丸くして、すぐに苦笑を浮かべた。

「想い人なんて……。私、みんなのこと大好きだけど……」
「八葉の中に、神子の頼れる者がいるのならばと思ってな」

 言葉に、花梨は少し悲しげにした。今の言い方が彼女を突き放しているように聞こえる自覚はあったが、八葉のように彼女を守れる力がある者のそばにいてくれた方が、和仁としても安心するのだ。
 だが、花梨の反応を見る限り、仮に頼りたい八葉がいたとしても、そうできない状況にあるのだろう。だから、わざわざ今まで関係の薄かった和仁を頼るのだ。そういう事情ならば致し方ないだろうと、小さな息をつく。

「鞠を貸せ」
「え?」

 和仁は花梨の膝の上から鞠を取り、手に持って立ち上がった。庭に置いてあった沓を履いて庭に出て、鞠を地面にひとつきし、再び手に取りながら花梨に振り返る。彼女は目をしばたたかせながら、こちらを見ていた。

「蹴鞠を教えてやろう」
「えっ……い、いいんですか? 体調は?」

 「問題ない」と短く言い放つと、花梨は立ち上がって庭に降りようとしたが、履物を沓脱に置いていることを思い出したらしく、ちょっと待っててください!と慌てながら奥へと消えていった。
 和仁は苦笑して再び鞠をつき、一度跳ね上がって地面に落ちそうになるそれを、片足で軽く蹴った。ぽんと当たり、また落ちてきたので、同じことを繰り返す。このように身体を動かすのは久々だ。きっと花梨よりも早く疲れてしまうことだろう。教える側だというのに情けないことだ。
 まもなく、風変わりな履物を手に持った花梨が、ばたばたとこちらに向かってきた。とても嬉しそうな笑顔を見せながら。その姿を見た和仁もまた、無性に嬉しくなって、ふふっと小さく笑った。